思想『ユートピア』

トマス・モアの『ユートピア』(1516)読む。SFの古典を読む感覚で読んでみたのですが、けっこう面白いです。トマス・モアは法律のプロとして国王のコンサルタントをしていた実務家のエリートなんだけど、「国王至上法」(1534年。国王をイギリス国教会のトップにして権力強化する法律)に断固反対したので国王に背いた犯罪が成立し処刑されたひとです(英米法の特徴的な部分は、法が人間の意志よりも上位にあるところで判断を下す権限を認めているところですが、解釈次第では多用な意味が生成可能である)。「ユートピア」という言葉は「どこにも存在しない国」という所謂「理想郷」を意味する語彙として著作物のタイトルなんかに使用される頻度(語彙の需要)は現在でもある。しかし、本を読んでみるとモア本人は空想事ではなくてマジに考えていたと思います。というのも、当時のヨーロッパ人の共有語(ラテン語)で書かれているんだけど、絵空事のように小説形式で書いているのは「自己規制」の表現をとらざるを得ない程度に現代社会批判(政策、法律、経済、宗教)からはじまって、革新的な己の思想(いまから読むと管理社会の完成を「ユートピア」と真面目にとらえているのでかなりヤバイ発想です。大航海時代の合理主義的な思考が徹底されてます)を公務員が展開しているので。。それでも「規制」を逆手にとって、少々堅い内容でも読者に面白く読めるように工夫してるのはいい。「規制」=コードは自由を往々にして抑圧するものだけど、表現形式においては逆に面白いものを生産できる可能性もある(法律を熟知したうえで一見犯罪行為とおもわれるものを合法的に行うように)。昔に比べて刑法の懲罰が残酷ではなくなってきたのも(グローバルな死刑廃止制度)、宗教からテクノロジーに犯罪抑止の機能を代替させることが可能になってきたからではないかと本を読みながらかんがえる。とすると、宗教が現実的=社会的な機能を喪失すると超現実的なことしかやることはないので新興宗教はカルト化する傾向になる。テクノロジーが進化するほど超現実的な認識は劣勢になるのでこの極端な差異はかなり激しい。だから新興宗教が容易に権力をもちやすい時代になってるのかなともおもう(公明党とか)。モアがいうユートピア王国は、超現実的な認識(神とか死とか)は統一するべきものではなくて、自由に個人の宗教をもつべきであり、原理主義者は危険なので追放される。島国の王国は外部の侵入者には強力なので、自衛と内政に努力する。大衆的な暴動を抑えるために54州に分割してコミュニティーの結束を小規模なものに分散する。暴動と犯罪がおこる原因は格差にあるとして、私有制を廃止し共有制にする。そうすることによって他国を侵略する必要性もなくなる。安楽死も合法化する。相互監視による犯罪抑止を徹底させる、など一見「自由」を希求しているようで結果として官僚組織の権力の強力化に安易につうじてしまうシステムをもっている王国になっている。あとは、人間の良識を信頼している。個人的にはヤクザも社会が機能するために必要なのでそれが「悪」だからといって否定するのもよくないとおもうんだけど、、。どうも潔癖性なひとは己の悪い部分を認めたがらないけど他人の悪も自分の悪も全部受け止めなきゃ社会全体を感性的には理解できないんじゃないかとおもったりしてます。しかし、数百年前の本でもけっこう思考を触発されるものだと改めてかんじました。

漫画『ライフ』19

愛海と歩の確執もクライマックス(刃物沙汰)に達した前巻からの展開ですが、やはり歩の快進撃がとまりそうにありません。母親との涙による和解も成立し、学校側の無能な教師たちの間ではイジメがあった事実を受け入れざるを得ない状況になってきました。もはや19巻までくるとイジメの問題を超越しちゃっています。いじめっ子の愛海は権力の行使(父親)を放棄し、友人やクラスメートからも孤立された立場に追い込まれてしまいました。しかし、父親に歩をいじめていた事実を告白する直前の愛海の表情から察するにまだまだ戦闘態勢は維持しているようです。19巻はこのヒトコマにやられてしまいました。悪いところがなんかエロいのです。それでも愛海が劣勢状態なのは疑いないことなので、ここで歩の親友羽鳥さんを学校から転校させることになるようです。。それにしても愛海がここまで開き直っちゃうと後が続かない気もするんですが、歩との関係が新しい局面を迎えることは間違いなさそうなのでこれからの話も非常に楽しみです。さいきん今更なんですが海外TVドラマの『24』と『プリズン・ブレイク』にハマっていて何が面白いんだろうなーと分析していたら、主人公が選択する選択肢(二者択一)があってそのどちらを選んでも最悪な選択しかできないだろうなっていう状況のなかで生きているからで(しかしどちらかを必ず選ばなければならない)、最新情報機器を使いこなす『24』のジャック・バウアーにしろ、監獄の制限された空間のなかで人間と道具と頭を使って問題を解決する『プリズン・ブレイク』のマイケル・スコフィールドにしろ通常人よりは上の体力と知能を持っているんだけど、その個性は絶対的には肯定されない仕組みになっていて、ミッションが変更され変更されていくなかで人と人の関係のなかでそれぞれの事情や立場が明確になってくるなかで臨機応変な行動が重視されてくる。だから主人公であって、正義だとか純粋な目的を掲げていても相手側からみれば「それは俺の利益にならないからお前を殺す」とおもったり「お前とは利益が共通するから協力しよう」ということになる。それで、相手が裏をかいている可能性もあるので主人公は自分と家族だけしか信頼しなくて協力者であってもそのなかにスパイがいたり時としては感情的なもつれ合いが原因になり人間関係を妨害することになる(キャラクターは一対一というより第三者が二者の間に介在して初めてバランスがとれるようになっている。冷戦期のパワーバランス、三すくみ、三権分立など。利害が絡まって増殖する関係者同士で最良の判断を思考するゲームが面白いのもこれが基本)。『24』はそういうやり取りが面白かったりする。人と人が関係するときは社会的な利害関係が前提になっていると思うんですが、中東の戦争(キリスト教国×イスラム教国)や中国、ロシアと独立派少数民族の紛争、アフリカの内戦など、戦争をするときは人と人の関係が話し合いで解決できなくなったときは習慣上、暴力で解決するしかないということなんだけど、アメリカのTVドラマを観ていると必ずしも強者が肯定されるわけではなくなってきた、とアメリカ国民は気づいてきているのかなとかんがえたりしています。これは映画のなかでも昔は純粋なヒーローだったバットマンスパイダーマンが悪役に転じてしまう内容からみてもおもうんだけどアメリカのjusticeってなんだったんだろうな、、と。イラクに訪問したブッシュがイラク人記者の投げた靴を二足とも身軽に避けるシーンは西部劇の活劇っぽくて笑えたんだけど、、小泉と同じく後世の評価は何がしたかったんだろうな、っていうかんじなんだろうとおもいます。そもそも「悪」なんてものは相対的なものに過ぎないし、二者択一の選択肢においても絶対的な判断など存在しないのだから、いちいち迷わずに決めるべきなんですよね。と己を戒めておきます。

ライフ(19) (講談社コミックス別冊フレンド)

ライフ(19) (講談社コミックス別冊フレンド)

小説『巨匠とマルガリータ』

ミハイール・アファナーシエヴィチ・ブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』(1940)読む。スターリン政権時の小説。遺稿として国が管理(内容が社会主義体制批判なため出版禁止処分)していたものを、70年代に出版。ペレストロイカ後に研究が進み、ロシア語圏内だけで発行部数1500万部。当時、出版していたらどれくらい売れてたのだろう、ていうか社会主義体制だから収入も著者にたいしてはいってこないのだろうが、そのへんはよく知らない。。小説を読んでいてわかるのは、魔術師(と部下)がキャラクターたちを操作して、目的(作家とマルガリータの恋の成就と社会分析)を遂行するために邪魔なキャラは精神病院に強制送致させる超能力(予言・読心術・空間操作・記録書き換え=文書偽造・物質の変移=催眠術)を持っている職業悪魔。勿論、スターリン(悪魔)と官僚組織(部下)の置き換えになっている。操作されるキャラクターは劇場関係者、出版関係者、芸術家など、当時の主要な表現者集団であり、真実を知ろうとすると瞬殺されたり国家権力の自動発動により強制収監されるシステムになっている。理解しづらいのは、作家(主人公と称される)の書く新約聖書のリメイクが所々に挟まれていてそれがキリストを処刑したピラトの懺悔のようになっているところと、閉塞的な世界観に呪詛をぶちまけて精神病院で静かに空想しながら死んでいく作家とマルガリータの恋がどういう機能をしているのか。タイトルからするとこの線の話が中心だということらしいが、物語全体にたいする影響力からいってそうとは言えない。むしろサイドストーリー的なサービスにしかなっていない気がする。それに体制に絶望した作家が宗教に救いを求めて恋人とともに安らかに昇天するファンタジーを書くとか、「自由」を切実に希求する作家の倫理として問題があるのではないか、と宗教とは無縁な東洋人からすればおもえてしまうのだ。日本でも戦時中と占領期間には国家とGHQによる「検閲」(新聞・ラジオ・出版)があったわけであるが、戦後しばらくしてマスメディアが発達し、テレビが全世帯に普及してインターネットが身近なものになると、「検閲」の代替作用である法による「規制」がネット社会のなかでも次第に蝕んでくるようになってきた。。ということで、意外と社会主義体制下に書かれた本作は現代社会にも通用するものがあるのかもしれない。

巨匠とマルガリータ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-5)

巨匠とマルガリータ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-5)

ベストセラー『カラマーゾフの兄弟』を読破。

フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』(1880)を今更読む。といっても、売れてる新訳版ではなくて米川の旧訳のほうだけど、、翻訳は理論整然ではないが行間の陰気なリアリティが面白い。『罪と罰』『悪霊』と比べるとナラティブが鈍足な気もしたけど、まあこんなものだったかな、とドストの感覚を更新。殺人事件の推理も物的証拠を挙げて論じるのではなくて心理分析とイマジネーションによる解釈(審理中の検事と弁護士の攻防)を選択するのは、19世紀末だからできたことだし(いまだとテクノロジーの進歩によって数行で終わらせるところだが、熱いドラマになっている)。キャラクターを要約すると、父(権力・金・女)ー長男ミーチャ(暴力)、次男イヴァン(知性)、三男アリョーシャ(倫理)の関係を中心に据えて、不労所得で暮らしている父(地主)と長男ミーチャ(無職)との確執(金・女)、西欧合理主義的な思想をシニカルな形式に独特発展させた次男イヴァン(無職)と物語中唯一常識人であり、読者からの感情移入が許されている三男アリョーシャ(ロシア正教僧侶見習い)との対話など、その他付属物的なキャラクターたちが3兄弟の磁力に引き寄せられる。ドストのキャラクターのイメージは冷酷陰気で非常識なひとたちなので(じつは情深く優しい)区別がつきにくいのだが、キリスト教的な倫理観をもったキャラを登場させることによってなんとか成立している(『罪と罰』のソーニャ)ところがある。ドストと比較可能な未来を予言する作家は他にフランツ・カフカくらいしか思い浮かばないけど、21世紀に入ったいまでも読んでいると絶えず問題提起をしてくれて思考に躓いていた部分にヒントをあたえてくれるし、逆にさらなるミステリーに引き込んでしまう、、そういうところが、第5編6「大審問官」(イヴァン:アリョーシャ)と第11編9「悪魔 イヴァンの悪夢」(イヴァン:イヴァン’’)には顕著にあらわれている。「大審問官」のイヴァンの説く思想は近代ヨーロッパの思考を進化させていけばフーコーのいうところの教育=規律型社会(ディシプリン)から管理型社会(コントロール)の移行に行き着くのは必然だととらえて人間は「自由」を説くキリスト教的倫理観よりも「自由」を恐れてむしろコントロールされることを欲望することになるだろう、と128年前の作家の創造したキャラの予言は映画『イーグル・アイ』(2008)的な状況と酷似してくることになる。他者の欲望の分析力は凄いので(思い込みとクセが強いところはどうかとおもうけど)、それを当時のロシア社会に応用して分析した未来予測だとおもうが、集中力の高い思考力と行間から伝わってくる切迫した神秘的な才能が惜しむことなく発散された未完遺作(続編は三男アリョーシャがテロ組織を結成して国家転覆を計るという『悪霊』的な過激なものになる予定だったらしい。19世紀末ロシアは農奴制が解放されて、社会が変化する時代の過渡期。金融不安とテロが勃発する現代と似ているところもある)現代ロシア人も読まないのに、平成日本でなぜベストセラーになっているのかは謎です。。

清涼in流水!入門

清涼院流水の『コズミック』『ジョーカー』(1996)読む。amazonでも近所の書店でも書籍(新品)が見当たらなかったので、中古で買いました。レビューを読むと辛辣な評価を下しているものが多かったのですが個人的には面白く読めました。情報化社会が浸透してきた今この作品(推理小説の常識を逸脱した傑作と謳われている)を読むと古い感覚があるのも否めないのですが、逆に90年代的なレトロな感覚も良かったです。著者が体験した阪神淡路大震災の経験を元に「今年、1200個の密室で、1200人が殺される。誰にも止めることはできない。」という犯罪予告状の予言通りに無差別に大量に人が殺傷される情景を淡々と描いていく荒唐無稽な設定の『コズミック』前半部は厳めしい文体と内容の空疎なキャラクターたち(被害者)のギャップに嗤えます。後半部からはJDC(探偵集団)のメンバーたちが独自の推理法を駆使して事件の謎を解いていき、前半部「問題編」に対する「解答編」になっています。推理小説はあまり読んだことがないので確かなことは分からないのですが、『ジョーカー』は推理小説マニアを自認する(?)清涼院流水さんの「推理小説入門書」のようになっていて、今まで書かれてきた推理小説の解法パターンを整理してメタ視点から批評している作品「論」といったかんじでポイントを網羅した受験参考書を読んでいるかのような気分になる作品でした。特にアスペルガー症候群を連想させる(病名を例に出すのはよくないのだけど)言葉に対する執着(登場人物固有名)とJDCメンバー龍宮城之介の「とんち推理」(ダジャレのようにみえる言葉遊びから推理していく方法)は面白かった。しかし、内容の割に読み下すのに時間がかかるのが難。ゲームバランスでいえばJDCメンバーの能力が最強すぎるので「語り」を面白くする「制限」(空間的時間的にキャラクターの自由を束縛するもの。目的を阻害する敵。通常の場合そこからの逃避行がミッションとなることが多い。)が無い。無いのでシステムとしてのバランスを楽しむのではなくて、キャラをどれだけ最強に仕上げるかという単調なレベルアップに終止している感も否めない。JDCメンバーのキャラクター描写に分量を割きすぎたり、リズム感が単調なので全体のバランスを考慮すると3割程度カットしたら「語り」がもうすこし読みやすくなったのかもしれないので、ほんとにヒマな読者しか想定していないのではないかともおもえました。ということでいくら仮想空間(読書)でレベルアップしても単調な時間(現実)は過ぎていくわけで読後はシュールで空虚な感覚に浸れます。時間があれば他の作品も読んでみたいとおもいました。

コズミック流 (講談社文庫)

コズミック流 (講談社文庫)

ジョーカー清 (講談社文庫)

ジョーカー清 (講談社文庫)

アニメ『Kanon』を鑑賞。

アニメ『Kanon』(2006-07 京アニ版)を鑑賞。ゲームからアニメ化された作品。序盤の沢渡真琴と後半部の月宮あゆ(↑)のエピソードにかけてひたすら泣ける。自然と涙が頬を伝う。舞台は日本のどこかにある雪に覆われた小さな街。高校生が携帯電話を使用していないことや街の雰囲気からして90年代前半の話なのかもしれない。時代も場所も特定はできない。どこにでもありそうな透明感のある風景(たとえば主人公の部屋)が特異な空間に対する感情移入を容易にしている。数人の美少女キャラと主人公(♂属性常識的ツッコミ)と相棒(♂属性軟派的天然系ボケ)の組み合わせが基本スタンスの美少女ゲームだが、序盤で全美少女キャラを登場させておいてメインとなるキャラのエピソードを個別に用意して攻略(?)する(沢渡真琴川澄舞美坂栞月宮あゆ)。最後の月宮あゆのエピソードでは以前の話の節々にほのめかされていたフラッシュバックの意味やOP直前の謎めいた台詞が全て明るみにだされる。『Kanon』のポイントは主人公相沢祐一の「記憶喪失」の問題にあると個人的にはとらえている。7年の空白期間を置いて舞台となる雪の街に戻ってきた祐一。美少女キャラは祐一の「記憶」とどこかで関係している筈なのだが、祐一は「記憶喪失」の状況にある。回を進めるごとに祐一は存在の儚い美少女キャラの懸命な努力と愛情に支えられて「記憶」を回復してくるが、最後のジグゾーパズル(月宮あゆ)を解くことができない。それを解こうとすると自分のなかの決定的な何かが崩壊してしまうのではないかという危惧感を抱いている。最終話にいたると(*以下ネタバレ注意)雪の街に生活する人たちの特異な世界が実は月宮あゆが夢想している世界なのではないかという問題提起が成される。第一話から登場していた月宮あゆ。どうやら彼女は祐一の「記憶喪失」と密接な関係を持っているらしい。事実は、現実の月宮あゆは幼少時に木から落下して重傷を負い現在植物状態にあり祐一の空白の7年間のあいだ病院に入院しているのだった(!)。ということは肉体的に顕現していた月宮あゆは祐一の妄想の産物(「記憶喪失」の問題も目前に居ながら事故を防げなかった罪悪感から起因していた)であったことが暴露されるのだが、彼女の周囲にいたキャラクターたちは確実に月宮あゆという存在を認めていた筈である。とすると妄想の産物だったのは月宮あゆではなく、己が常識的な性格の人間であることを露とも疑わない相沢祐一のほうだったのではないかという推測も可能である。複数の小さな世界が並列的に存在している所謂パラレルワールド的な状況と凍りつく冬から暖かい春の兆しをみせて物語は終幕する。パズル=「記憶喪失」を解いてしまうとひたすら涙しか流すしかない仕掛けが至る所に巧妙に設置されてある。涙腺を刺激する状況を原理的に駆使して魅せる。

Kanon 8 [DVD]

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