SF『火星のタイムスリップ』

フィリップ・K・ディックの『火星のタイムスリップ』(1964)読む。自由になりたくてもなれないキャラクター、現実と折り合うことのできないキャラクター、精神病とドラッグの幻覚で現実を歪めてしまうキャラクターたちの「闘争」がディックのシナリオを構成している。自由のための闘争といってもいいが、キャラクターはけっして現代社会に対して自由を勝ち取ることはできない。敗者の物語といってもいい。現代社会は架空の未来に設定されている。未来に設定したほうがイメージしやすいというのがある。精神病(統合失調症)、ドラッグによる脳の覚醒(幻覚、五感の変化)、超能力(時間を操作できる=タイムスリップ)、こういったSF的ガジェット(道具としてシナリオの拡張に貢献)をキッカケとして読者が信じている現実認識を言語のイメージで変化させることがディックの目的であるのかもしれない。社会から隔離された意識のなかでもがき、自由を夢見ながら、それに到達することはできない。あるとすれば死後ということになるがそれにたいする保証も希望もないというわけである(後期になると幼稚な発想にもとづいた神秘思想の探求にむかう)。

火星のタイム・スリップ (ハヤカワ文庫 SF 396)

火星のタイム・スリップ (ハヤカワ文庫 SF 396)

SF『ニューロマンサー』

ウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』(1984)読む。どうでもいいけど、私の生まれ年である西暦1984年はSF的な記号に満ちてはいないだろうかと自問してみる。たとえば、押井守の『ビューティフル・ドリーマー』の公開年、ジョージ・オーウェルの『1984』。映画、音楽、文学のカテゴリーのなかで新しい表現形式が隆盛してきて、アニメーションが評価されるようになったのもこのころからではなかっただろうか。些細な記号の共通点を発見しては密かに楽しむ癖のある私は一見なんでもないようなところから類似を詮索していって、何か大きな繋がりを(または仕掛けられたトラップを?)見出すことに執着しているところがあるのかもしれない。『ニューロマンサー』は近未来の電脳空間=サイバースペース(映画『マトリックス』、アニメ『攻殻機動隊』の元ネタ。ネット=網に接続されて自由に空間を移動できるようになった近未来を描いている。アイス=氷=セキュリティを破壊して企業のデータベースに侵入=ハッキングして情報を盗むのが主人公の仕事である。いまでいうインターネットのメタファー。)のなかで生かされる主人公ケイス(内蔵に毒を注入され、解毒剤を得るためには犯罪組織の命令に従わなくてはならない。)が犯罪組織の裏でコントロールしているA.I.の存在を追跡・解明しながらすすんでいくシナリオの構成をとっている。つまり、ケイスはA.I.に操作されながらA.I.から逃走するために、サイバースペースのなかで闘争をしかけることになる。ケイスには闘うしか選択の余地はない。プロットはメタフィクションの夢綴りのようで感覚でかんじるしかないうえに、80年代のガジェット用語(機械と肉体が直接的に接続するときに生じる痛み。現代の無線にはない生々しい感覚が表現されている。)、カタカナ、漢字、ルビ、ひらがな、の組み合わせの文体が刺激的で面白い。

ニューロマンサー (ハヤカワ文庫SF)

ニューロマンサー (ハヤカワ文庫SF)

ドラマ『赤い糸』

ドラマ『赤い糸』のキャラ間の距離感がいい。南沢奈央はカメラから中程度の距離感から思案にくれている(神経質な)顔がいいし、溝端淳平のセリフをいう間にとる計算された間のとりかたが男らしさを感じさせるのかなともおもいました。男前キャラはキムタクみたいにボソボソしゃべらないまでも言葉をしゃべらなくても伝わる雰囲気があるんだけど(「男らしさ」とは言葉よりも行動でみられるものらしい)、間を利用してそういうことができる俳優ってそういないんじゃないかなと。そうしないとカッコイイ台詞もそう聞こえないってのもあるからかもしれないけど。原作もドラマもキャラクターの間にある距離感が重要で、それがひろがったり縮んだり、とつぜん切れたりしても他人との関係はつながっているんだよ、ていうことを言いたいのかなとおもいました。海外ドラマでも『LOST』とかはチームで協力して島の謎の解明に迫るとか島から脱出するとかよりも、島の情景のキレイさだとか、キャラクターの内部にはいっていって共感をもたらすとか、まったりした部分に焦点がいっている気がしたなぁ。『24』と『プリズン・ブレイク』だと人間不信にならざるをえないほどシナリオの練られた部分とかが面白いんだけど。それから『LOST』をみてみると非効率的なことをやっていることに納得がいかないし、他人を信頼しすぎて微笑ましい状況になってきているww、まあそれはそれでいいドラマだとおもうけどヒマがないかぎり続きをあまりみたくはならない。やっぱり個人的には『プリズン・ブレイク』の常軌を逸したキャラクター同士がぶつかり合うのが面白いかな。囚人をキャラにしたら他人を殺すこともできるので、シナリオの選択肢がひろがるところがいい。しかも突き動かされる欲望が金とかセックスなのでこれも純粋に人間を表現していていいなwと。『24』だと国家的規模の大義を賭けた闘争みたいになってますけど、ジャック・バウアーにはもっと負荷をあたえなくては(シーズン1で妊娠中の妻が殺害されたり本人が拷問されたりもするが)敵対者とフェアではないなとおもうので(そもそもテロ戦はフェアではないが、それを理由にジャック・バウアーに超人的な体力と有利に行動できる情報をあたえすぎているのではないか。たとえテロリストが卑劣な手段に訴えようともそれを撲滅するパワーは現在ガザ地区で戦争中のイスラエルハマス原理主義の軍事力以上に差があるのが現実というわけだし、バウアーもテロリスト以上に卑劣な手段を国家権力を利用して使用することになる。テロリズムの特権は先制攻撃と逃亡の選択肢しかない)、もっと救いようのない状況まで追い込まれてほしいとおもう。『赤い糸』とか中高生ものだと舞台が学園生活のなかに閉鎖されているから、シナリオにリアリティを付加しようとすると恋愛を基軸にしてドラッグや暴力を外部からもちこんでくることになるんだけど、こういう状況下のドラマは日本ではよくあるので自由度が低いかわりにクオリティは高いことになっている。溝端淳平の母親のドラッグ中毒も健全な視点から(そういうひとがいることへの周囲の理解をうながす)表現されているし、ドラマっていうのは人間の理性的な部分だけを表現するのではなくて、欲望や感情もぜんぶ詰め込んだほうが共感しやすいし、真実をつたえているとおもうので、こういう良質なドラマがもっと増えてくれたらいいとおもいました。

赤い糸 上

赤い糸 上

思想『ソクラテスの弁明/クリトン』

プラトンの『ソクラテスの弁明/クリトン』(紀元前)読む。ようするにこの本を読むことによって何が得られるのかが問題だが、言葉に取り憑かれたソクラテスの自己思弁を読者に強いること、つまり教育的な観点からプラトンは書いているとおもう。思考は自由だが、そのためリスクもおおきい。ソクラテスは民主主義(つまり多数がかならず正しい制度)のルールと宗教(倫理。いまではテクノロジーが代替しているといっていい。欲望のままに行動する動物的な人間をコントロールするための装置)を遵守して、常識ハズレな告訴と刑(死刑)にもかかわらずそれを受けることを是とするお話。弟子のプラトンほど想像力に恵まれていないからか、ソクラテスの信頼する武器は徹底的に論理、いわゆる言葉を使用した思弁をいやになるほどくりかえして、読者にもそういうことをかんがえてもらいたいと願っているようにおもわれる。裁判所の発言記録である『ソクラテスの弁明』は、自己弁護するどころか詭弁を弄しているととらえかねられないほどの饒舌なスタイルや論法を駆使して裁判官、告発者、聴衆を苛立たせている。ではなぜソクラテスは執拗に反抗的でフザケているといってもよい自分にとってマイナスな態度を敢えてとるのかというと己の「正義」を曲げたくはないからだと言い張るのである。つまり戦略的に選択された策であるらしいのだ。その「正義」とはなにかというと、己の死をもって社会体制(民主国家)の根本的な矛盾を晒すというところにあるらしい。親友との対話『クリトン』を読むと、ルールに縛られて殺されることに被虐的な快楽すら感じているのではないかとおもわれるほどにソクラテスの態度は冷静で、饒舌がすぎるとひとを嗤わそうとしているのではないかと疑われるほどにそのあくまで言葉を信頼している、論理に縛られている状況から死による自由がえられることによる楽観的な思想をのべたてるのである(ここまで死を楽観視できる原因は宗教にもよるらしいのだが、死後が無であっても思弁が導きだした当然の帰結であるというわけだから苦しくはないということらいし)。そこまで言葉で割り切られちゃうと、読者や弟子としても立つ瀬がないため、プラトン形而上学的な事柄に興味があったのはこのあたりが関係しているのかもしれないとおもった。ようするに社会体制(民主国家)の矛盾はなにかというと、民主主義は全国民の意志が反映されているようにタテマエとしてあってもほんとは多数者の利益と意志によって国家の意志が作用され、マイノリティーはつねに隅に追いやられるか理不尽な状況に追い込まれるということで、どうにかしてその矛盾をなくしてくださいよっていうのが後世に託したソクラテスの犠牲パフォーマンスであったようにおもう。しかし、言葉では解決できないためソクラテスはそれ以上、矛盾を追求することなしにアイロニカルな微笑をふくんだまま任務を終え、無言で逝ってしまうわけである。

小説『ロビンソン・クルーソー』

ダニエル・デフォーの小説『ロビンソン・クルーソーとその後の冒険』(1719)を読む。無人島で生活する前編『ロビンソン・クルーソーの生涯と冒険』の続編にあたるけど、物語の面白さ(生死のかかった制限された空間からのエクソダス)は前編にあるかもしれないけど、仲間とのチームプレーによって交渉を自分の利益にかなうようにすすめていく語り手の賢さがうまく表現されていて読んでいて有益にかんじるのは後編のほうかもしれない。後編におけるロビンソンは旅もするし金儲けもするし思索もかかさない、ビジネスマンのモデルのようなキャラクターになっている。交渉のプロとして人間関係を間接的に操作していって目的を遂げるプロセスは見事としかいいようがうない。資本主義を分析した古典『プロ倫』の社会学者は、ロビンソン・クルーソーを宗教と労働が密接に関係していた時代の典型的なキャラとしているが、それも頷ける程度にロビンソンの功利的な思考は徹底しているというわけだ。厳格な規律を要請する宗教(プロテスタント)を倫理的な機能面において経済活動と直截的に合致していたのがこの時代特有の空気らしいのだが、宗教がその機能を失効した現代においては資本主義経済の形式も変化せざるをえない、ということらしい。前編に登場した無人島が人間関係の実験舞台になっていて、なんで法律や宗教、他者とのルールや共同体が遵守すべき幻想が島を統治するためには必要なのかが説かれているわけであるが、ルールが制定される以前の暴力的な無秩序な状況は現代でも自然災害などで荒廃した街では略奪・強盗・強姦・殺人が多発するところからみて効力をうしなった考察というわけにもいかないだろう。その他、虐殺に関する考察もしていて非常に興味深く面白い筆致で書かれてある。流血沙汰の描写なども綿密で他者がこうおもっているから(予測)、語り手はこう動いてその関係で他のキャラも動いてくる、結果こうなるというプロセスが読んでいて面白いのだけど、そんな状況ではない場面でも「どうすれば自分に危害をあたえられずに有益なことができるのか」ということを冗長に分析するので、結局なにもできずに信頼していた奴隷を無惨にも殺されてしまうところなど、有能そうにみえてじつは無力なところもあったりとww、しかしなぜ語り手はある手段をとらなかったのかということが延々と説明されており、そこが行き過ぎると退屈にかんじる読者も多いだろうけど個人的には面白かった。現代の日本人が読むと「一石二鳥」を金科玉条としているようなロビンソンの思考と行動には理解に苦しむところもあるとおもわれるが、本人は他者との関係において自己流のフェアな意識と正義感をもっている(その正義感がつよくですぎると無責任な行動や本人より下とおもわれる人種を徹底的に軽蔑したり、価値観の異なる偶像崇拝をしている少数民族の偶像を夜襲をかけて焼き払うという傍からみると暴力行為以外なにものでもない行動を特異な分析で正当化することにもなってくる)。現代に生きるビジネスマン必携の書といえると同時にグローバリゼーションのなかでも価値観の差異が深刻な状況になってきた国際情勢においても読者の周囲に関係する身近な日常生活においてたちあわらわれる問題解決法においても効力を発揮する思考であることには疑いをいれない。

iphoneヽ(´∀`)ノ

携帯数年ぶりに変えました。電話とメールくらいしか使ってなかったんだけど、これからは肉体の一部として重宝しようかな、とおもえるくらいのモノにしあがっていました。しかし初めは操作性に慣れなくて右往左往しているけどしだいに肉体になじんでくる。やっぱりアップルはこの感覚だよねぇ、、と使ってみてかんじるものがありました。無機質なコンピュータなんだけど、生物的なセクシャリティを触れてるとかんじるような、、そんなかんじです。ディスプレイに直接タッチして指示をだすところなんか近未来的(『マイノリティ・リポート』のトム・クルーズが操作していたホログラムをつかった手の動作で指示するコンピュータなど)だなぁ、と感心してしまいました。GPS搭載で、オプションによって相手の具体的な位置を24時間監視できるサービスも面白いし、マクドナルドや駅構内で無線LANに接続できるサービスも面白い。最終的には『攻殻機動隊』みたいに機械と肉体が分離できない状況になってしまうのではないかと勝手な妄想がふくらんできて愉しいです。合理化されるってことは見ていて気持ちのいいものだし、みんなもなんだかんだで幸せそうだから、こういう機能が徹底されてしまえば悩みや苦しみもなくなるのだろうとおもう。人が社会で合理的に機能することをやめてしまえば、それにたいする受け皿も用意してあるわけだし(福祉や健全な宗教は必要になってくる。経済的な「格差」は他の代替物によって解消される)。生物学的にいったら人類の目的は種の保存らしいけど、(家畜化されてイノシシから食用に適したブタを人工的につくりあげたように)新しい環境に慣れていけばそれに適応するために肉体改造が必要になってくる。『攻殻機動隊』の機械と接続することによって生じる肉体的な痛みはそれがうまく表現できていたとおもう。不適合な環境を受け入れて、適応する(変化には痛みが伴う)。使用法と判断を誤らないかぎり、賢いひとにとっては生きやすい時代なのかもしれない。モノにはきまったひとつの使用法はなくていろんな使い方があるんだなー、とかんがえると面白い。そしてそれを組み合わせることで化学反応を起こすこともできる。モノだけではなくて、ヒトや集団にもいえるし、あるシチュエーションにたいする対応にもいえる。CNNのニュース(TV)が面白いのは、戦争(イスラエルハマス原理主義)のライブ映像を流しながらキャスターは中立的な位置をとりながら、両者の意見を視聴者に伝えて(なるべく公平に)、さてどちらが悪いのか正しいのかといったことを議論するのではなくて、「どうすればこの問題を解決できるのだろうか?」ということを現時点の情報を総合・収集しながらリアルにかんがえていくからだとおもう。こういう思考って英米系の思想の流れからきているんだけど、この思考訓練は重要だな、、とおもわされているさいきんです。
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小説『ガリヴァー旅行記』

ジョナサン・スフィフトの『ガリヴァー旅行記』(1726)読む。今年末に読む本がこれになりそうです。一年を区切りでかんがえたり、イベント行事に街中お祭り騒ぎになる日本の国民性に慣れない昨今ですが、年末年始は実家に帰らなければならない習慣があるらしいので外交上、それに従うことに理不尽なものをかんじながらも己の被虐的な義務感を遂行することに幼稚な快楽をかんじている最近です。他人からみれば天の邪鬼な態度をとっているとも見咎められかねないので、普段の会話では「空気を読む」ことに慣らされているけど、受け流すだけで中身のないからっぽな人間に自らを偽造していった感がある(そもそも人間に中身なんてないのかもしれない)。だから言葉の具体性を吟味するよりもその裏側にある他人の欲望と目的を察知するのに敏感になってきている。明確な意味作用以外の言葉を使用したコミュニケーションはフィクション(記号)だととらえているので簡単に信頼するわけにはいかないというわけだ。しかしこういうひねくれた態度が表面にでてくると人間嫌いの皮肉っぽいやつととらえかねられない(用心深さが他人からみれば陰険にみえる)ので、他人との対応にはルールとマナーに則った適度な距離感の維持がたいせつになってくる。そこで相対化(他人と自己をフェアな位置に置いて思考する作業)する視点をあたえてくれるのがこの『ガリヴァー旅行記』の使用方法である。この作品が書かれた時代の西欧人は合理主義精神に則った大航海時代で自国の植民地を拡大していった。同時代に書かれた『ロビンソン・クルーソー』よりも西欧人からみた外国人にたいする視点はフェアなものになっている(「野蛮人」だと一括りにしていない)し、外国に旅行して未知の他者とコミュニケーションをとることによって自国の国民性や思考に疑念を抱き、しまいには人間の理性はとるにたりないものだという結論に到達する。理性よりも欲望に忠実なのが真理だというわけだ。それは歴史を振り返るまでもなくて日々のニュースを見れば一目瞭然であるだろう。そして西欧人が欲望に隷属して行動する人間を「矯正」するためにありとあらゆる合理的な手段が用いられてきたが20世紀後半になるとテクノロジーの急速な進化・普及とともに直接手をくださなくても間接的に支配できる「監視」の方法を選ぶようになる。その思考スタイルと技術的な方法は、ここ数100年で日本でも全面的に受け入れられてきた(韓国ほどではないけど)。だから近代科学の思考の基礎となった合理主義思想がリアルなものとして現代日本人にも読めるようになっている。もちろんスフィフトは合理的な思考と現代社会を批判するためにユニークな方法で持論を展開しているわけだが(モアと同様に自己規制が逆利用されている)。