小説『ガリヴァー旅行記』

ジョナサン・スフィフトの『ガリヴァー旅行記』(1726)読む。今年末に読む本がこれになりそうです。一年を区切りでかんがえたり、イベント行事に街中お祭り騒ぎになる日本の国民性に慣れない昨今ですが、年末年始は実家に帰らなければならない習慣があるらしいので外交上、それに従うことに理不尽なものをかんじながらも己の被虐的な義務感を遂行することに幼稚な快楽をかんじている最近です。他人からみれば天の邪鬼な態度をとっているとも見咎められかねないので、普段の会話では「空気を読む」ことに慣らされているけど、受け流すだけで中身のないからっぽな人間に自らを偽造していった感がある(そもそも人間に中身なんてないのかもしれない)。だから言葉の具体性を吟味するよりもその裏側にある他人の欲望と目的を察知するのに敏感になってきている。明確な意味作用以外の言葉を使用したコミュニケーションはフィクション(記号)だととらえているので簡単に信頼するわけにはいかないというわけだ。しかしこういうひねくれた態度が表面にでてくると人間嫌いの皮肉っぽいやつととらえかねられない(用心深さが他人からみれば陰険にみえる)ので、他人との対応にはルールとマナーに則った適度な距離感の維持がたいせつになってくる。そこで相対化(他人と自己をフェアな位置に置いて思考する作業)する視点をあたえてくれるのがこの『ガリヴァー旅行記』の使用方法である。この作品が書かれた時代の西欧人は合理主義精神に則った大航海時代で自国の植民地を拡大していった。同時代に書かれた『ロビンソン・クルーソー』よりも西欧人からみた外国人にたいする視点はフェアなものになっている(「野蛮人」だと一括りにしていない)し、外国に旅行して未知の他者とコミュニケーションをとることによって自国の国民性や思考に疑念を抱き、しまいには人間の理性はとるにたりないものだという結論に到達する。理性よりも欲望に忠実なのが真理だというわけだ。それは歴史を振り返るまでもなくて日々のニュースを見れば一目瞭然であるだろう。そして西欧人が欲望に隷属して行動する人間を「矯正」するためにありとあらゆる合理的な手段が用いられてきたが20世紀後半になるとテクノロジーの急速な進化・普及とともに直接手をくださなくても間接的に支配できる「監視」の方法を選ぶようになる。その思考スタイルと技術的な方法は、ここ数100年で日本でも全面的に受け入れられてきた(韓国ほどではないけど)。だから近代科学の思考の基礎となった合理主義思想がリアルなものとして現代日本人にも読めるようになっている。もちろんスフィフトは合理的な思考と現代社会を批判するためにユニークな方法で持論を展開しているわけだが(モアと同様に自己規制が逆利用されている)。