ベストセラー『カラマーゾフの兄弟』を読破。

フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』(1880)を今更読む。といっても、売れてる新訳版ではなくて米川の旧訳のほうだけど、、翻訳は理論整然ではないが行間の陰気なリアリティが面白い。『罪と罰』『悪霊』と比べるとナラティブが鈍足な気もしたけど、まあこんなものだったかな、とドストの感覚を更新。殺人事件の推理も物的証拠を挙げて論じるのではなくて心理分析とイマジネーションによる解釈(審理中の検事と弁護士の攻防)を選択するのは、19世紀末だからできたことだし(いまだとテクノロジーの進歩によって数行で終わらせるところだが、熱いドラマになっている)。キャラクターを要約すると、父(権力・金・女)ー長男ミーチャ(暴力)、次男イヴァン(知性)、三男アリョーシャ(倫理)の関係を中心に据えて、不労所得で暮らしている父(地主)と長男ミーチャ(無職)との確執(金・女)、西欧合理主義的な思想をシニカルな形式に独特発展させた次男イヴァン(無職)と物語中唯一常識人であり、読者からの感情移入が許されている三男アリョーシャ(ロシア正教僧侶見習い)との対話など、その他付属物的なキャラクターたちが3兄弟の磁力に引き寄せられる。ドストのキャラクターのイメージは冷酷陰気で非常識なひとたちなので(じつは情深く優しい)区別がつきにくいのだが、キリスト教的な倫理観をもったキャラを登場させることによってなんとか成立している(『罪と罰』のソーニャ)ところがある。ドストと比較可能な未来を予言する作家は他にフランツ・カフカくらいしか思い浮かばないけど、21世紀に入ったいまでも読んでいると絶えず問題提起をしてくれて思考に躓いていた部分にヒントをあたえてくれるし、逆にさらなるミステリーに引き込んでしまう、、そういうところが、第5編6「大審問官」(イヴァン:アリョーシャ)と第11編9「悪魔 イヴァンの悪夢」(イヴァン:イヴァン’’)には顕著にあらわれている。「大審問官」のイヴァンの説く思想は近代ヨーロッパの思考を進化させていけばフーコーのいうところの教育=規律型社会(ディシプリン)から管理型社会(コントロール)の移行に行き着くのは必然だととらえて人間は「自由」を説くキリスト教的倫理観よりも「自由」を恐れてむしろコントロールされることを欲望することになるだろう、と128年前の作家の創造したキャラの予言は映画『イーグル・アイ』(2008)的な状況と酷似してくることになる。他者の欲望の分析力は凄いので(思い込みとクセが強いところはどうかとおもうけど)、それを当時のロシア社会に応用して分析した未来予測だとおもうが、集中力の高い思考力と行間から伝わってくる切迫した神秘的な才能が惜しむことなく発散された未完遺作(続編は三男アリョーシャがテロ組織を結成して国家転覆を計るという『悪霊』的な過激なものになる予定だったらしい。19世紀末ロシアは農奴制が解放されて、社会が変化する時代の過渡期。金融不安とテロが勃発する現代と似ているところもある)現代ロシア人も読まないのに、平成日本でなぜベストセラーになっているのかは謎です。。